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2018年3月23日 (金)

日本の奇習~鈴を持ち歩くご婦人たち

 先日、マイクロバスに乗る機会があって、のんびり座っていたら、斜め前に座った年配の女性が、バッグをゴソゴソやり出した。

 その時に聴こえてきたのが、鈴の音である。どうもバッグのファスナーに鈴をつけているらしい。
 何を探してるのか、バッグから次々に鈴の鳴り物が出てきて、いちいち「チリリン!」と音を出す。
 携帯電話に財布、化粧ポーチにも付いている。
 僕は隣で座る妻にたずねた。
「海外で鈴を身に着けている人って、見かけないよね」
「そうねえ」
 妻がうなずく。
「日本のおばさんくらいのモノじゃないかな」
「失礼しちゃうわね」
 自分もおばさんの妻がムッとする。
「でも私は、鈴なんて、付けないわよ。うるさいもん。でもあなたのお母さんや、妹さん、キーホルダーにも鈴を付けていなかった?」
 たしかにそうだ。たまに帰省して、家の鍵を持たされることがあるのだが、これに鈴が付いていて、歩くたびに音がする。
 どうにかしてくれと言いたくなるが、しかしどうしてまた、日本人は鈴は付けるのだろうか?
「それは、神社とかお寺でお守りを買ったら、付いて来たりするじゃない。あの影響じゃないかな」
 普段はぼんやりしている妻が、めずらしく鋭いことを言った。
「なるほど。あのお守りの鈴は、きっと寺社で、祭壇に拝んだ時にガラガラ鈴を鳴らすところから来ているな」
 一説によれば、鈴を鳴らすことで、身を清め、神仏を目覚めさせるのだとか。
 それが小型化して土産になり、鈴は独立してキーホルダーになっていったのかもしれない。
 音が鳴れば失くすことがないという説もあるが、そもそも失くした物体が、自分で動いて音を立てるわけもなく、理屈として成り立っていない。
 しかし日本は、考えてみると、まるで「鈴の天国」というくらいに鈴を持つご婦人方が多くいる。
 これはもはや、日本の奇習と言っていいのではないのか。
 世界で鈴を付ける風習のある国や地域をご存知の方がいたら、ぜひご教授ください。
 それにしたって、鈴はうるさい。
 そう度々、神仏を目覚めさせてばかりしたら、神様たちが寝不足になっちゃうよ。
 

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2018年3月 9日 (金)

下田高校で講演会

 今日の午後は下田高校で一時間ほど話をしてきた。

 静岡東部の基幹校のひとつで、去年は東大へも合格者を出したかな。
 市内の中学校でした話と同様に、幕末の黒船来航、その後の黒船祭が始まった経緯、そして姉妹都市の意義などを話してきた。
 ただ下田高校は、中学校と違って、伊豆全域から生徒が来ている。
 そこで今日は、伊豆全体、そして下田高校の成り立ちも話した。
 下田に黒船でペリーが来たのが1854年。日米通商友好条約の付則条約を締結するためである。
 すでに下田、函館両港が外国船に開港され、下田には黒船のほかにも色々な船籍の船が来航していただろう。
 秋になってきたのは、ロシアのプチャーチン率いるディアナ号である。日本に通商条約の批准を迫った。
 ところが安政の大地震に襲われる。
 それでも条約は締結し、北方四島が日本に含まれることが確認された。今でも日本政府は、この外交文書を持って、北方四島の日本領有を主張しているわけである。
 そのせいで、北方領土の日である2月7日には、下田の中学生たちが、地元で行われる「北方領土マラソン」に参加している。
 参加者上位には北方領土返還運動の基地たる根室市より新巻鮭が贈られている。
 さて、地震に遭遇したディアナ号は、補修が必要であった。そして沼津の戸田(へた)で修理が決まった。しかし曳航していく途中に嵐に遭って、船は沈没、ロシア人乗組員たちは、富士や沼津、戸田の漁師に助けられた。
 そのおかげで、下田を始め、これらの市町は、いまでもロシアと行き来があって、日ロ協会が熱心に活動している。
 戸田では新しい船を作ることになった。日本人の船大工たちが伊豆各地から集められた。ロシア人技術者の指導の下、日本人による初の西洋型船が完成した。
 ここで学んだ船大工の中には、長崎海軍伝習所で勝海舟たちと学んだ者、咸臨丸でアメリカに渡った者もいる。
 のちの横須賀造船所では、技術の面で中心的な役割を果たしたのである。
 造船大国ニッポンの曙は、この伊豆からはじまったと言っていいだろう。
 歴史の中には、思いもよらないその土地の姿が眠っているものである。
 今では観光地として名高い伊豆も、かつては世界に向かう扉のような地域であった。
 生徒諸君が、僕の話を聞いて、何か少しでも心に残ることがあったらいいな。
 そして僕は帰宅し、海を見て、また世界に心を馳せるのである。

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2018年3月 2日 (金)

人間が生きる空間

 これまでずっと、日本と世界のはざまに立つような気持ちで、さまざまな小説やエッセーを書いてきた。

 昨年出版した「腹ペコ騒動記~世界満腹食べ歩き」(講談社)も、世界のいろいろな国での食べ物を通して、ガイドというより、日本と世界の間にある空間を描いたつもりだ。
 昔から僕のことをよく知っている池ちゃんは、「大五さんが地球の歩き方タイ編で、執筆した中華街(ヤワラー)の記述は、ほかのガイド本とはまったく違って、すごくよかったですよね。さすが後年に作家となる岡崎大五の文章だなと感嘆したものです」
 この前、そんなことを言われて、もう三十年近くも前に書いた、しかも地球の歩き方の数ページの文章を覚えている方もすごい。
 ところが僕は、この文以外、地球の歩き方の町案内は書いたことがない。唯一、やった仕事は、ヨーロッパを歩き回るようなガイド本で、かなりの分量を短期間で仕上げたくらいだ。
 どうも僕には、ガイドブックを執筆したりするライターの素養はないようである。
 だからほとんど注文もなく、これだけ旅をしていながら、関わってこなかった。
 海外の紹介記事は、性に合わないというか、今ならば、SNSで発信していれば十分で、それ以上はやる気が起きない。
 
 それよりも、自分らしい考察や解釈が入ったものが書きたいのである。
 すると世界のことを書きながら、自分の居場所は、別のところにある。
 ガイドブックなどでも執筆するのは日本かもしれないが、書き手の心の居場所は海外にあり、だからガイドブックとして成立するのだと思う。
 心の居場所も日本になる僕の場合は、そういう文章にはならない。
 そもそも、人間には、世界を旅していようとも、居場所が必要である。体はひとつしかないのであるから、居場所も一カ所にならざるを得ない。
 そこから生まれるのが、僕の文章なのである。
 
 僕は今、旅はすれども、日常は伊豆の下田に暮らしている。移住してから15年が経ち、どっぷりとはまった感じだ。
 わりと最近までは、「下田に来た」と思っていたが、昨年あたりから「下田から何ができるか」と考えるようになっている。
 ベクトルの向きが真逆になったのである。
 今年から来年に向けて、心境も状況も少し変化しそうな兆しが見えてきた。
 もちろん、この下田から何ができるか、何が書けるか。
 それが作家としてのテーマなのだが。
 さて、どうなりますことやら。

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