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2018年2月23日 (金)

SNSと口語体と文語体

 文章を生業とするようになって、20年が経つ。

 記事を書くこともあったが、主としてエッセーや小説を書いてきた。
 もっとも文体に悩むのが小説である。
 「わたし」などが主語になる一人称形式、人物名が主語になる三人称形式と二通りに分かれるが、エッセーや私小説は前者、推理小説や歴史小説など一般小説は後者の形式を使うのが普通だ。
 ただ、一人称でも、三人が並列で登場する場合もあり、また三人称でも、主人公一人に語らせるものだけでなく、複数人数が主人公的役割を果たす場合もある。
 こうなると文章量が、どうしても長くなり、また読者も、自分がどの登場人物に気持ちを持っていけばいいか戸惑う。
 ただし多面的に描ける利点はある。
 主人公が一人の場合は、読者も、主人公になりきって読みやすいのだが、一人の目から見える世界は、所詮狭くなるし、見方も一方的に陥りやすい。
『黒い魎』を書いた時は大変だった。東日本大震災のスケールの大きさを描きたかったので、主人公が四人、それぞれの視点から書いた。
 同じものを見ていても、百人十色の見方ができるが、同じ場所に止まり続けるのは、小説としては、疾走感が生まれない。そこで、全体の中で、四人が時間系列で語り継ぐ手法で書いた。
 最近、当時の女性編集者とメールでやりとりする機会があって、「あの時は、本当に最後の最後まで魂を削って作りましたよね」と、また仕事が一緒にやれるようにと、まるで戦友のような気分で語り合ったものである。
 僕はデビュー時から、会話文がうまいと言われた。生き生きとした口語を文章に練り込みたかったのである。
 ところがこの『黒い魎』のように、テーマが重い小説を書くときは、やはり文語体が向く。
 会話文はともかく、地の文章がしっかり骨組みできないと、構造的にできのいい作品にはならないのだ。
 口語体を使う名手は、椎名誠さんや嵐山光三郎さん、故赤瀬川原平さん、沢野ひとしさんもそうである。
 彼らは昭和軽薄体と呼ばれ、一世を風靡した。
 ただし、やはり文体が、重い小説には向かない。
 歴史物もダメだろう。
 自分でトライしてみて思った。
 なんかピンとこないシロモノになってしまうのである。
 言葉とは不思議なもので、文字に起こすと、口語体が本来の意味とはまた別のニュアンスを醸し出す。
 感情が発露しすぎて、逆におさまりが悪くなってしまうのだ。
 そのへんを昭和軽薄体の作家たちは、克服し、文字に起こしても、十分面白く、コントロールされた感情の中で、長文のエッセーや小説もモノにした。
 SNSの時代になって、誰もが口語体でつぶやくようになっている。
 しかしほとんどの人々が、文字となって現れた口語文の性格の変化に無頓着である。
 だからこそ、あまりに感情的で浅薄、しかも一方的な主張がまかり通り、世界の分断を招いている。
 文章はかなり冷静なものである。
 少なくとも東アジアの漢字圏では、二千年も、文字文化を磨いてきている。
 SNSも、きっとこれからは、AIを駆使して磨かれていくだろう。
 そうなると、世の中も、もう少し気分的に落ち着くかもしれない。

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